ただでさえ長文なので、今回からは文体を変更したいと思います。
猫は、救急患者として扱われた。元気になれば誰かに譲るつもりでいたので、うさぎのケージ内に、古毛布を敷いた段ボール箱の寝床と、トイレに使えそうなサイズの深皿に猫砂を入れたものを家として、とりあえず玄関脇の廊下に置いた。自室のすぐ外で、猫アレルギーのわたしとしては、これがぎりぎりだった。その上猫に触るときはゴム手袋を着用した。
看護ノートより以下抜粋。
■10月30日(日) 体重600g
18:00 獣医に連れて行く。右目は絶望的。体内にコクシジウム、体外に蚤。
※コクシジウムは人にもうつる、猫用品は毎日熱湯消毒すること。
21:30 缶詰1/4と粉ミルク1さじ。粉薬を注射器で飲ませる。
22:00 水を全く飲まない。蚤を一匹退治した。
22:15 FAX音か携帯のバイブ音のような音を猫が出している。
(ゴロゴロいうとはこれのことだろうか?)
■10月31日(月)
0:00 ずっと鳴いている。人間の赤ん坊の泣き声に似ている。
5:00 一晩中鳴いていたので気になって何度も見に行く。
5:15 右目の炎症をおさえるための点眼薬。
5:30 缶詰の1/4と粉ミルク1さじと薬。これだけ食べるのにも20分要する。
5:55 元気が出てきたのか出歩こうとする為、急遽屋根を置く。
6:30 初めての排便。緑がかった軟便。住居消毒中だった為キャリー内で。
6:45 教えてもいないのに砂に小便をする。
7:15 わたしが仕事のため出かける。明らかに睡眠不足。
わたしが18時過ぎに帰宅するまで無人だ。昼休憩に母が戻って餌を与えるが、わたしの帰宅時に食べ切っていなかった。これ以後ミルクを多めに缶詰を与え、できるかぎり完食させるよう努める。
■11月1日(火) 体重750g
6:00 缶詰1/5と粉ミルク2さじと薬。よろよろだが元気に歩く。
6:15 点眼薬。
7:00 やや固形便。食事は少なめのほうがよさそう。
19:00 二度目の獣医。担当医が不在、水野先生に代わる。
水野先生は、猫を生後1ヶ月過ぎと推定した。右目は機能しておらず、化膿が進めば手術で摘出する必要があるが、体力が整うまでそれはできないとの事。子猫は診察台に張り付いてはいるものの、怖がる様子はない。下痢のため小さな肛門が腫れて痛々しい。この頃は寒さや下痢が死に繋がるので、注意することと言われる。
ペットボトルに湯を入れてやると、寄り添っている。さぞ他人肌が恋しいだろうが、アレルギーのため一度も抱いてやれない。ゴム手袋で撫でてやるのがせいぜいで、わたしの皮膚はゴム製だと思われていないだろうか…。
この頃、猫は柳生十兵衛と名づけられた。隻眼の剣豪のように強く育つように。名づけたことで、猫が一時的なものではなくなった。もう、うさぎの代替品ではなく、彼は別の生き物であり、十兵衛なのだった。
わたしの顔を片方しかない大きな目で必死に追い、ゴロゴロとのどをならすことに非常に感激した。草食動物であるうさぎは顔の側面に目がある。「見つめられる」ことはなかった。うさぎは鳴かない生き物だ。「甘え声で呼ばれる」こともなかった。彼は、わたしの動作を見、言葉をきいている。
何か、とても弱いものに必要とされるのは、女性にとって想像以上に心揺るがされることだ。母性は、わたしにもそなわっているものらしかった。
十兵衛は拾ってから一度も人間を怖がらず、むしろ甘えて頼ってきた。人にゴミ袋に捨てられたことは、忘れることにしたのか。書籍によると、子供であっても野良猫を保護すると、非常に警戒し、大怪我を余儀なくされるそうだ。野良出身ではなく家猫出身の彼が、幼少時にラーメン屋の裏に捨てられたのだとしたら、それはどんな事情があっても、無責任な、冷血動物の所業だと思わざるをえない。
ところで、現在のわたしはじんましんも出なければ、目が充血することもない。猫アレルギーは、克服できるものだと私は身をもって証明している。