小学生の頃から9年間ずっとミニうさぎと一緒でした。彼女はうさぎではありましたが、いるのが当然の兄弟のような存在でした。私自身が育てたというよりは、親の庇護の元に共に育ったというほうが正しかったため、兄弟のように思っていました。(「生き物を育てる」とは、成人し、必要なお金を稼ぐようになってからの事を言うのだと思っています)
彼女はカルシウムを体外排出できない珍しい体質で、膀胱にカルシウムの結石がわたしの小指ほどに育ってしまいました。血なまぐさいおしっこを、わたしは生理かと思いましたが、獣医に行くと間違いなく血尿。相当痛かったのに、わたしは気付かなかったのです。症状はもうぎりぎりまで進行しており、開腹手術となりました。もう死ぬかもしれないからと言いながらも、獣医さんは必死に助けてくれました。彼女は学会に症例を報告され、体表にも斑点として現れたカルシウムに悩まされ続けました。その後は食事療法を続け、舶来のものや国内のもので特別食(まずいらしい)を必要としました。
これはすいかをせっせと小さな口で食べる愛らしいすがたです。りんごを剥いていると、剥いた皮がテーブルの下で待っている彼女の口にそのままおさまっていくのが面白くて、りんごは常時我が家にありました。
2005年の8月7日、ミニうさぎは猛暑に耐え切れず、わたしの元を去りました。高齢のため食欲が減退し、体力が落ちていたのでしょう。外見はそれほど年老いたとは思えませんでした。数日間非常に苦しみましたが、獣医にももうできることはなかったので、それをただ見守るだけでした。死んでしまった身体はかたくてじっとりとしてはいましたが、苦しみから解放された安らぎがあるように思えました。夕方の6時、日曜日、いつものテーブルの下で、彼女はわたしの腕で息を引き取りました。暫くは、あたたかかったです。
チョビを霊園に連れて行って燃してもらったのが8月8日のことです。 小屋を片付けることができない。足元を白黒のものが動くと彼女と錯覚する。彼女がいた場所をさがしてしまう。名前を呼んでは、泣いてくらしていました。家中が沈んでいました。
10月の終り頃、出先のわたしの携帯に、母からメールが届きました。お隣のラーメン屋さんが猫を保護している。うちの生垣にひっかかっていたそうだ。ずっとなき声がしていて心配していたのだけど、保護されたのならよかった。
慌てて自宅に戻ると、果たして猫らしきものがおしぼりケースのなかからこちらを見つめていました。その哀れなこと!がりがりにやせて、毛皮はごわごわ、目ばかりが大きい子猫です。しかしその右目は膿が覆い、肉色の瞬膜が露出し、グロテスクなものでした。見ている間にも、黒い虫がわさわさとその小さな身体を蹂躙しています。
わたしはそのとき、この猫をもしたすけたら、さびしさから逃れられないかと思いました。電車に乗っても、泣いていたわたしです。ナイチンゲールのようにこのねこを看護すれば、わたしは立ち直れると思いました。その当時は猫が飼いたいとは思わなかったのです。私はひどい猫アレルギーでした。
かわいそうにと泣いていたのは本当はうさぎを思い出して泣いていたのです。それでも、泣いているわたしを、猫はじっと見ていました。そして、小さな口が開いて声にならない声がいいました。「たすけてくれるの?」ピンクの舌がのぞきました。
猫はとても軽く、いやなにおいがしました。虫だらけの猫は素手では触れなかったので、布に包んで抱きました。すぐに猫は、眠ってしまいました。
「安心して眠っているわ」
ラーメン屋さんの奥さんが、言いました。わたしはとても動揺しました。こんなものをどうするというのだろう?チョビはとても綺麗だったのに、こんなきたならしいものを、一体どうするというのだろう?
たすけてあげなければ、とただ思い、ラーメン屋さんからキャリーと猫用ホットカーペットをお借りして獣医に連れて行きました。ありのままを話したので、作られた診察券にはこう記されていました。
飼い主: momo-e 様
患者: 猫 ちゃん
この子には、親も名前もない。
そのとき、事の重大さを感じました。獣医さんは体内にコクシジウムと回虫がたくさんおり、体外には蚤がたくさんいることと、猫の風邪とやらを教えてくれ、オレンジ色の薬とフロントラインと療養食を処方してくれました。
下痢がひどいので、たすからないかもしれません。助けるしかなかったので、そんな言葉は忘れました。この猫はチョビのかわりにきたのですから、大切にしなければ。そんな風に思いました。獣医の帰りに、ホームセンターでトイレ砂と猫餌だけと猫ミルクを買い、まだ片付けていなかったうさぎの家に一時的にいれてやりました。その頃、猫は立つことすらできず、それで十分にみえたのです。