片目猫「十兵衛」と「うちのひと」達はそれなりにやっています。

Mar 26, 2006
3、「猫」から「十兵衛」へ

ただでさえ長文なので、今回からは文体を変更したいと思います。

 

 

猫は、救急患者として扱われた。元気になれば誰かに譲るつもりでいたので、うさぎのケージ内に、古毛布を敷いた段ボール箱の寝床と、トイレに使えそうなサイズの深皿に猫砂を入れたものを家として、とりあえず玄関脇の廊下に置いた。自室のすぐ外で、猫アレルギーのわたしとしては、これがぎりぎりだった。その上猫に触るときはゴム手袋を着用した。

 

看護ノートより以下抜粋。

 

■10月30日(日)  体重600g

 

18:00 獣医に連れて行く。右目は絶望的。体内にコクシジウム、体外に蚤。

     ※コクシジウムは人にもうつる、猫用品は毎日熱湯消毒すること。

21:30 缶詰1/4と粉ミルク1さじ。粉薬を注射器で飲ませる。

22:00 水を全く飲まない。蚤を一匹退治した。

22:15 FAX音か携帯のバイブ音のような音を猫が出している。

     (ゴロゴロいうとはこれのことだろうか?)

 

■10月31日(月)

 

0:00  ずっと鳴いている。人間の赤ん坊の泣き声に似ている。

5:00 一晩中鳴いていたので気になって何度も見に行く。

5:15 右目の炎症をおさえるための点眼薬。

5:30 缶詰の1/4と粉ミルク1さじと薬。これだけ食べるのにも20分要する。

5:55 元気が出てきたのか出歩こうとする為、急遽屋根を置く。

6:30 初めての排便。緑がかった軟便。住居消毒中だった為キャリー内で。

6:45 教えてもいないのに砂に小便をする。

7:15 わたしが仕事のため出かける。明らかに睡眠不足。

 

わたしが18時過ぎに帰宅するまで無人だ。昼休憩に母が戻って餌を与えるが、わたしの帰宅時に食べ切っていなかった。これ以後ミルクを多めに缶詰を与え、できるかぎり完食させるよう努める。

 

■11月1日(火)  体重750g

 

6:00 缶詰1/5と粉ミルク2さじと薬。よろよろだが元気に歩く。

6:15 点眼薬。

7:00 やや固形便。食事は少なめのほうがよさそう。

19:00 二度目の獣医。担当医が不在、水野先生に代わる。

 

水野先生は、猫を生後1ヶ月過ぎと推定した。右目は機能しておらず、化膿が進めば手術で摘出する必要があるが、体力が整うまでそれはできないとの事。子猫は診察台に張り付いてはいるものの、怖がる様子はない。下痢のため小さな肛門が腫れて痛々しい。この頃は寒さや下痢が死に繋がるので、注意することと言われる。

 

ペットボトルに湯を入れてやると、寄り添っている。さぞ他人肌が恋しいだろうが、アレルギーのため一度も抱いてやれない。ゴム手袋で撫でてやるのがせいぜいで、わたしの皮膚はゴム製だと思われていないだろうか…。

 

この頃、猫は柳生十兵衛と名づけられた。隻眼の剣豪のように強く育つように。名づけたことで、猫が一時的なものではなくなった。もう、うさぎの代替品ではなく、彼は別の生き物であり、十兵衛なのだった。

 

わたしの顔を片方しかない大きな目で必死に追い、ゴロゴロとのどをならすことに非常に感激した。草食動物であるうさぎは顔の側面に目がある。「見つめられる」ことはなかった。うさぎは鳴かない生き物だ。「甘え声で呼ばれる」こともなかった。彼は、わたしの動作を見、言葉をきいている。

 

 

何か、とても弱いものに必要とされるのは、女性にとって想像以上に心揺るがされることだ。母性は、わたしにもそなわっているものらしかった。

 

十兵衛は拾ってから一度も人間を怖がらず、むしろ甘えて頼ってきた。人にゴミ袋に捨てられたことは、忘れることにしたのか。書籍によると、子供であっても野良猫を保護すると、非常に警戒し、大怪我を余儀なくされるそうだ。野良出身ではなく家猫出身の彼が、幼少時にラーメン屋の裏に捨てられたのだとしたら、それはどんな事情があっても、無責任な、冷血動物の所業だと思わざるをえない。

 

ところで、現在のわたしはじんましんも出なければ、目が充血することもない。猫アレルギーは、克服できるものだと私は身をもって証明している。

 

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Mar 25, 2006
2、チョビを亡くして、こねこを拾って
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小学生の頃から9年間ずっとミニうさぎと一緒でした。彼女はうさぎではありましたが、いるのが当然の兄弟のような存在でした。私自身が育てたというよりは、親の庇護の元に共に育ったというほうが正しかったため、兄弟のように思っていました。(「生き物を育てる」とは、成人し、必要なお金を稼ぐようになってからの事を言うのだと思っています)
 
彼女はカルシウムを体外排出できない珍しい体質で、膀胱にカルシウムの結石がわたしの小指ほどに育ってしまいました。血なまぐさいおしっこを、わたしは生理かと思いましたが、獣医に行くと間違いなく血尿。相当痛かったのに、わたしは気付かなかったのです。症状はもうぎりぎりまで進行しており、開腹手術となりました。もう死ぬかもしれないからと言いながらも、獣医さんは必死に助けてくれました。彼女は学会に症例を報告され、体表にも斑点として現れたカルシウムに悩まされ続けました。その後は食事療法を続け、舶来のものや国内のもので特別食(まずいらしい)を必要としました。
 
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これはすいかをせっせと小さな口で食べる愛らしいすがたです。りんごを剥いていると、剥いた皮がテーブルの下で待っている彼女の口にそのままおさまっていくのが面白くて、りんごは常時我が家にありました。
 
2005年の8月7日、ミニうさぎは猛暑に耐え切れず、わたしの元を去りました。高齢のため食欲が減退し、体力が落ちていたのでしょう。外見はそれほど年老いたとは思えませんでした。数日間非常に苦しみましたが、獣医にももうできることはなかったので、それをただ見守るだけでした。死んでしまった身体はかたくてじっとりとしてはいましたが、苦しみから解放された安らぎがあるように思えました。夕方の6時、日曜日、いつものテーブルの下で、彼女はわたしの腕で息を引き取りました。暫くは、あたたかかったです。
チョビを霊園に連れて行って燃してもらったのが8月8日のことです。 小屋を片付けることができない。足元を白黒のものが動くと彼女と錯覚する。彼女がいた場所をさがしてしまう。名前を呼んでは、泣いてくらしていました。家中が沈んでいました。
 
10月の終り頃、出先のわたしの携帯に、母からメールが届きました。お隣のラーメン屋さんが猫を保護している。うちの生垣にひっかかっていたそうだ。ずっとなき声がしていて心配していたのだけど、保護されたのならよかった。
 
慌てて自宅に戻ると、果たして猫らしきものがおしぼりケースのなかからこちらを見つめていました。その哀れなこと!がりがりにやせて、毛皮はごわごわ、目ばかりが大きい子猫です。しかしその右目は膿が覆い、肉色の瞬膜が露出し、グロテスクなものでした。見ている間にも、黒い虫がわさわさとその小さな身体を蹂躙しています。
 
わたしはそのとき、この猫をもしたすけたら、さびしさから逃れられないかと思いました。電車に乗っても、泣いていたわたしです。ナイチンゲールのようにこのねこを看護すれば、わたしは立ち直れると思いました。その当時は猫が飼いたいとは思わなかったのです。私はひどい猫アレルギーでした。
 
かわいそうにと泣いていたのは本当はうさぎを思い出して泣いていたのです。それでも、泣いているわたしを、猫はじっと見ていました。そして、小さな口が開いて声にならない声がいいました。「たすけてくれるの?」ピンクの舌がのぞきました。
 
猫はとても軽く、いやなにおいがしました。虫だらけの猫は素手では触れなかったので、布に包んで抱きました。すぐに猫は、眠ってしまいました。
 
「安心して眠っているわ」
 
ラーメン屋さんの奥さんが、言いました。わたしはとても動揺しました。こんなものをどうするというのだろう?チョビはとても綺麗だったのに、こんなきたならしいものを、一体どうするというのだろう?
 
たすけてあげなければ、とただ思い、ラーメン屋さんからキャリーと猫用ホットカーペットをお借りして獣医に連れて行きました。ありのままを話したので、作られた診察券にはこう記されていました。
 
飼い主: momo-e   様 
  患者: 猫       ちゃん
 
この子には、親も名前もない。
そのとき、事の重大さを感じました。獣医さんは体内にコクシジウムと回虫がたくさんおり、体外には蚤がたくさんいることと、猫の風邪とやらを教えてくれ、オレンジ色の薬とフロントラインと療養食を処方してくれました。
 
下痢がひどいので、たすからないかもしれません。助けるしかなかったので、そんな言葉は忘れました。この猫はチョビのかわりにきたのですから、大切にしなければ。そんな風に思いました。獣医の帰りに、ホームセンターでトイレ砂と猫餌だけと猫ミルクを買い、まだ片付けていなかったうさぎの家に一時的にいれてやりました。その頃、猫は立つことすらできず、それで十分にみえたのです。
Mar 24, 2006
1、猫の十兵衛
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・・・
 
 
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あ、どうも。
なにしろぼくは、食う・寝る・遊ぶの三拍子揃っているものですから。
 
えー、せっしゃは柳生十兵衛というものでござる。
 
それっぽく、名乗りをあげました。
初回は自己紹介をしなければなりませんね。
 
 
ぼくは愛知県の知多半島でうまれたねこです。
兄弟のうちで一番大きくてつよくて冒険心に満ち溢れたねこが、
ぼくでした。
 
おりしも9月、いい季節でした。暑くも寒くもないころです。
ぼくは母猫が兄弟のおしりをなめている隙を見て、
待望の乳離れと共に旅に出ました。
 
乳離れをしたということは、それなりに「ねこ」ができあがったということです。
いつまでもははねこにおしりを舐めてもらっていては、
りっぱなねこにはなれないように思ったぼくは、
知多半島を南下し、いずれは海に出ようと思っていました。
 
しかし、ぼくは10月の30日くらいに窮地に陥りました。
 
結果的には、早すぎたフーテン生活のために、
食べ物も探せず、雨風をしのぐこともわからず、猫風邪にかかりよろよろ、
ぼくは道端で死んだように倒れました。
右目がもう見えません。
身体をなにかがかじります。
 
 
だれかが、ぼくをつまみあげて風の通らないところにいれてくれました。
(あとできいたら、ダンボール箱のはいった「燃えるゴミ」の袋だった)
それはラーメン屋さんの裏にありました。
ラーメン屋さんは、ごみを片付けに来てぼくを見つけました。
 
「またねこだ」
 
ぼくは、二匹目のラーメン屋にたどり着いたねこだったのです。
ラーメン屋さんは心優しいのですが、
すでに犬2匹猫1匹を育てていました。
しかもそのねこは、スポイトでミルクをやったくらいの赤ん坊だったそうです。
 
「ミルクをあげるからがんばっていきていきな」
 
あたたかいミルクを飲んで、元気が少しだけ出ました。
ぼくはこわかったので、感謝をして生垣にかくれました。
 
 
そしたら、これが運のつき。背中の毛がひっかかってしまったのです。
 
 
もうぼくには気力はほとんどなかったのですが、
おとこらしくもがいてもがいてもがいてもがいて、
ぶらさがり状態に状況を悪化させたのはいい思い出です。
うそです。強がりでした。あの時は泣きそうでした。
 
 
このままでは、飢え死にするしかないぞ。
 それはいやだと思いました。
 
 
声の限りになくというのは、ああいうことだと思います。
僕は6時間なきつづけました。
たすけて、たすけて。
誰を呼ぶのかもわからず、とりあえず、たすけてとなきました。
ぼくは限度を知らないので、ちからつき、死ぬ一歩手前まできたころ、
ラーメン屋さんが、またきてくれました。
 
「こんなところにぶらさがって…どんくさいねこだね。かわいそうに。でも、飼えないんだ」
 
ぼくはラーメン屋さんのおしぼりがはいっていたプラスチックの網カゴに
いれられました。それは広すぎて、はじっこにうずくまりました。
 
「ねこのひろばならなかまがいるから」
 
それはどこなのでしょう。
ぼくはもう一歩も動けませんでした。
 
「かわいそうに、右目がぐちゃぐちゃだね」
「びょうきのねこかもしれないよ」
「まだ赤ちゃんだって」
「うちではもう飼えないの…つらいけど、ねこのひろばに捨ててこようかと」
 
「かわいそうに」
 
ラーメン屋さんが、だれかと話しています。
 
「野良猫の溜まり場につれていっても、生きていけないかも」
「こんなに赤ちゃんなのに、めがつぶれて、むしだらけで、
かわいそうに」
 
 だれかが泣いています。
(泣きたいのはぼくなのに)
そのだれかがぼくを抱っこしました。
 
ははねこと離れて以来、だれかにさわりました。
ぼくは、あったかいので、ねむりました。
もう、にゃあとも声が出ませんでした。
 
 
 
 
 
ぼくは、ラーメン屋さんのとなりのいえのねこになりました。
 
のみだらけのぼくは、さむさと、さびしさと、はらぺこで、
死んでしまいそうだったのですが、
こうして九死に一生をえたのでした。
 
まあ、よくあるはなしです。 
 ねこですからね。
 
 
実は、ぼくは記憶は三日ももたないので、
がんばって事実と願望をおりまぜてつづってみました。
だいたいはそんなかんじです。
 
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これがその当時のぼく(600g)です。
まあ、すこしばかり無謀な旅立ちでしたね。
でも、終わりよければ全てよしというそうですから。
 
 
前略母上様。
ぼくはいまはわりあい幸せにやっているので、
心配しないでください。
(先日きょせいしゅじゅつというのをうけて、
タマなしですが。)
 
 
 
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PROFILE
十兵衛、生後1ヶ月と少々(推定)

拾われっ子。05.09.15頃生まれる。幼少フーテン時代に猫風邪をこじらせ、右目をだめにする。目の色は黄色。薄茶色のキリン模様で、手足は白い靴下着用。ひげは白でまばらにはえている。しっぽはつくしの生えたてに似ている。

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