愛猫かりんさんとの日常です♪

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<めめ@はるか>

子なし主婦です。学校の放課後保育のバイトしてます♪           ↓↓↓HP『雪月華のとき』はコチラ
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<かりん>

2002,8月生まれ。ネットの里親募集を通じて、同年11/4に、めめ宅へやってきました。***************************Tシャツ等の衣類や文具・雑貨をかりんさんをモチーフにしたデザインで販売しております。『華鈴堂』へ飛んでみてくださいね♪        ↓↓↓ココカラ
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2006/04/30
けしきがあかるくなってきた

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「けしきがあかるくなってきた」

八木重吉のそんな詩ばかりが思い出される今日この頃。

上の写真のごとく丸くなっていたかりんさんも、

近頃はベランダで伸び伸びするようになった。

猫だって、季節がいいのは、気持ちいいよね。

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2006/01/02
雑煮も終了
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お正月も二日目の朝を過ぎました。
我が家ではお雑煮は純大阪風(船場風?)で、
元旦は白味噌に大根人参クワイ里芋等々具沢山&丸もち。
二日目は焼餅にミズナの澄まし汁です。
ダンナの実家のはどうなのか、もはや義母に聞いても釈然としないだろうし
ダンナ自身はそういうことがさっぱりわからないようなので
この先もこのままワタシ流でいきます。
すでにお澄ましの雑煮も食べてしまって、あとは午後からウチの実家へ。
明日は近場で初詣をすませて、明後日からダンナは新しい職場です。
毎日すこしずつ予習(?)しているようです。
わたしは4.5と骨休めして6日から仕事。
さー、今年も頑張らなくっちゃー。

 

と思ってたら、漏らしぞめされました(T_T)

いつものごとくダンナの掛け布団です。

天気よくないんだから、かんべんしてよ、もうっ!!

アタマに水引つけたから怒ってるの・・・?

2005/12/17
群れの中の人間

1134791479694277.jpg単独生活を基本とする猫族と違って、

わたしたち人間は、さまざまな群れに属して暮らします。
会社組織、学校、地域社会、家族親族、

それぞれのコミュニティで、
それに適したルールやマナーに則って生活しています。


わたしはかつてOLでした。
一般事務職として勤めていたわしは、
会社組織というピラミッドの、1134791378379420.jpg
底辺の中のひとつの点というポジションでした。

底辺上の一点からこのヒエラルキーの三角形を見渡すとき、
上、あるいは横、しか存在しません。
スムーズに、正確に仕事を全うするために、
上への確認・報告、横との連絡・協力、これが重要な鍵になります。
上への報告を怠れば責任問題が絡んできますし、
横との関係がギクシャクすれば、仕事は円滑に進みません。
常に上と横への配慮が必要なポジションでした。

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現在はといえば、仕事としてのヒエラルキーでいえば、
やはり底辺を支えるポジションにあたりますが、
ひとつの社会として捉えると、
わたしたちの下に沢山の子どもたちがいます。
上と横だけでなく、下への気配りが重要なわけです。
上と横にお伺いを立てている間も、下はじっととどまってはいません。
ある程度、自分の判断で実行に移してしまえる機動性が必要とされます。
この機動性、つまり決断力・行動力という面が、
実はわたしは非常に弱いのです。

というのも、これまで群れの底辺しか担ったことがないからです。
家族という群れにおいても、
いまだかつて姉であったことも母となったこともなく、
即ち自分以外の人間に指示を与えるという経験を
全くしてこなかったといえます。
上と横を見るのは得意でも、
下への接し方がぎこちなくなってしまうのです。
逆に下への指示を得手とするひとの中には、
横との連携の不得手な人もいるかもしれません。
普通の学校社会のように、
クラスがあって担任がその一つのクラスを責任を持って運営する、
という形ではなく、大勢の児童を複数の人間が指導する、
しかも終始一貫して関わるのではなく、シフトによって動く、
となると、横との連絡は不可欠なはずです。
また、各々が自己の判断で下へ指示を出しては、
下も混乱するばかりでしょう。
自分なりの倫理観やポリシー、判断力・行動力に自信があり、
他者を指導し慣れた人ほど、自己完結することによって

横に目が行き届きにくいということだってあるかもしれません。

 

人間は犬や猿とは違って、いくつもの群れに同時に属しています。
それぞれの群れで違った立場にいる場合、
やはり立場に応じた動きが必要とされます。

会社ではワンマン社長さんでも、入会したばかりの社交ダンスクラブでは

一番の新参者でヘタッピイ、ということもあるでしょう。

学校で一番優秀な生徒が、ボーイスカウトではまるで使えないヤツだったりもするでしょう。

そんなときに、「ワシは社長だぞ!」「ボクは生徒会長だぞ!」と言ったって

なんの値打ちもない場合だってあるのです。
人間は機械ではありませんから、
スイッチ一つでたやすくモードを切り替えるというわけにはいきません。
どうしたって完璧にはいかずに、どこかに不具合があるものです。
ただ、お給料をもらっている仕事の場合、
やはり少しでもその仕事に適したモードに近づく努力は必要でしょう。
どうしても足りない部分は、
上下左右、互いの協力、思いやりと許容力でしょうか。
それでも辛抱できなければ、べつの群れを探すか、
離れ猿のようにひとりで過ごすか、となるのかもしれません。
とかく人の世は難しい。
猫のように「わたしはわたしよ」と澄ましていられたら、とうらやましくなります。

2005/09/29
猫のモノサシ
人間にはモノサシがある。
社会的なルールを決める、大きなモノサシだけでなく、
個人個人の生き方の中で作り上げたモノサシというものがある。
善悪の基準であったり、行動を決めるときの判断のめやすであったり、
ものの考え方のもとであったり。

わたしは現在38才であるが、このトシになるとある程度
それまでの人生の中での経験値から、自分のモノサシというのが
ほぼ完成に近い形でできあがっている。
若いときにはまだ曖昧で、柔軟に他人のモノサシとの間で揺れ動いていたものが
いつのまにか各々、確固としたものが出来てしまっている。
周囲の友人、知人も当然30代後半から果ては50代であるから、
それぞれ自分のモノサシを持っているわけである。
ただ、困るのは、各人が同じモノサシを持っているワケではないと
気づいていないヒトたちである。

たとえばAさんとBさんが何かで諍いをする。
AさんはCさんに、「Bさんたら、こんなことを言うのよ!
それで、わたしがこう言ってやったの。
そしたらBさんが逆切れしちゃって。
ワタシ、何か間違ったこと言ってる!? 当たり前のことを言ったのよ。
Bさんのために言ってやったのよ」と訴える。
Aさんの言うことは間違っていない。
間違っていないとしても、Cさんにとっては「どちらでもいい」程度の
ことだったとする・・・・
Cさんが曖昧に「そうだねえ」なんてニコニコ笑うものだから、
Aさんは躍起となって「そうよ!言ってあげるべきでしょ。
Cさんだって、わたしの立場だったら、絶対言うでしょ」
「うーん、どうかなあ」「言うに決まってるわよ!!」
わたしの立場だったら、とAさんは言う。
たしかに、Aさんの立場で、Aさんのモノサシで判断すれば、
Aさんと同じ発言をするだろうが、CさんにはCさんのモノサシがあるのだ。
正しいことであっても、それをどの程度まで実現したいか、
どの程度の例外まで認められるかのモノサシは、
ヒトによって違うのだ。
それをAさんはわかっていない。
自分は正しいことを言っているのに、全面的に同意してくれないCさんに
友達甲斐のない、優柔不断な、とイライラする。

わたしはこのテのいい争いがキライだ。
不毛だからである。
どこまで言っても平行線だ。
上の例の場合なら、Cさんが一歩譲って「Aさんの言うとおりだね」と
言ってあげることでしか、話はおさまらない。
その場合、Cさんの中には釈然としないものが残る。
自分の考えの正当性を主張するなら、
自分の考えの基準となるモノサシについて説明するところから始めないといけない。
べつのモノサシで測っている以上、答えは一致しないからだ。
自分のモノサシを認めてもらうところから始める。
そんな気の遠くなるようなことはメンドウだし、
理解させたからといって相手のモノサシまで変えるには至るまいから
皆、釈然としないながらもほどほどに妥協し、譲り合いながら生きている。
そうやって折り合いをつけるのも、協調性のひとつであると思う。
もちろん、なんにでも妥協すればいいというものではなく、
どうしても守りたいものは守るべきだとは思うけれど。

犬ならば、飼い主のモノサシにあわせてくれるわけである。
無条件で、飼い主の意に沿おうとし、それが彼の喜びである。
群れで暮らす生き物である犬にとっては、ボスのモノサシ=群れのモノサシだ。
猫はどうか。
猫にとって、そもそもモノサシがあるかどうかも疑わしいが、
その時々の気分で伸縮する自在なモノサシを、
自分のためにだけ使う。
誰に強要するでもなく、誰に強要されるでもなく。

猫はいいなあ・・・・猫は。

ま、人でなきゃ味わえない思いも、沢山ありますがね。